幼稚園に通っていたころから、おぼろげながら記憶が形成されていったと思う。
自宅から幼稚園まで、手ごろな石を見つけ、それを蹴り続けて幼稚園に着く。
周囲には何となく注意していたが、
石の形状に合わせて、どのぐらいの力で、
どれぐらい遠くに飛ばせるか。
今から思えば無意識的に、そういう計測みたいなものが性に合っていたのかもしれない。
小学生の時も近所の友達とサッカーをするようになり、
気が付けばサッカー少年団に入団し、
そこでもサッカーというチームプレーを無視して、いかにボールを自分の陣地に入れないか、
だけ考えて(DFだった)相手の陣地にボールをポンポン蹴って、
また相手からボールをいかに取ってはボールを蹴っていた。
高学年になってDFからFWになっても相変わらずチームプレーが楽しいという感覚が全くなく、
何となく続けていたような気がする。
さらに中学生になってからも一応サッカー部に所属したがチームプレーの大切さが分からず、
だんだん試合に出場できなくなり、その間ひたすらリフティング、どうやって、
どのくらいの力を入れて、とかそんなことばかり考えてたらあっという間に3年間は過ぎる。
高校に入っても惰性でサッカー部に入る。相変わらず、内向性が強まり、
どうやって弾丸シュート、ボールの芯をとらえて、いかに遠くに、いかに速く、
そうやってボールの特性を計測していたんだと思う。
その間もチームプレーの大切さ、試合の結果、
云々ではなく自分が満足するシュートが何本打てて良かった。
とか、全く自分の足元までに何本ものパスがあるのにもかかわらず、責任という重みの感覚が
麻痺していた。
大学でもそんな感じ・・・。
で、ある時、偉大な力が働いて自分をアクシデントという形で一から再生に導いてくれた。
今から思えば小学生から高校生まで続けてきたサッカー、チームメイトに申し訳なく思う。
チームプレーの大切さを知る努力があれば、何倍も喜怒哀楽してサッカーが出来たのにと、
本当に後悔している。
気づくきっかけがアクシデントという偉大な力から授けられたギフトだとしたら、
もう二度とチームプレーをないがしろにはしたくないと思った。
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